Hiking to the top of hill, great success

山登りが好きだ。

山は危ないところ?

遭難のニュースを聞くにつけ、山は危ないのかなと思ってしまう。
危ないなら行かなければいいのだが・・・

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そうなのだ。
リスクが嫌なら、行かなければいいのだ。

なのに山に行く。
リスクを冒してまで、山に行く。

それはなぜか。

それを考えていたら、子供の頃のことを思い出した。

子供の頃、ひとりで「裏山」に行ったときのことだ。
山の斜面の上の方に、体の小さな子供がしゃがんで入れるくらいの灌木の「トンネル」を発見した。
そのトンネルはどこにつながっているのか。
なんかちょっと怖かったが、
どうなっているのか知りたくて這って入って、進んでいった。
その先は急斜面になっていて、思わず滑って一段下の地面に転げ落ちてしまった。
「いててて・・」
ズボンは泥でべったり、肘はすりむいている。

家に帰ると、服を汚したうえ怪我もしているのを見た母が言った。

「どうしたの」

「あそこで滑っちゃった・・・」
正直に答えると

「どうしてそんなところに行ったの?」
と言われた。

これ、母親からすると半分は、なぜそこへ行ったかの答えをききたいわけではなく、
「そんなことするから怪我するんだ」って言って、叱っている。
あとの半分は親なりの心配、だと思う。
こどもの自分からすると、やってはいけないことをやってほとんど叱られているように聞こえたものだ。

 

「どうしてそんなところに行ったの?」

これに、こどものあなたなら何て答えるだろう。

ちょっとこどもになって考えてみて欲しい。

「だって、行ってみたかったんだもん」

それがこどもの、当たり前の受け答えだと思う。
行ってみたいという好奇心。
見てみたいという欲求。

大人になって、
遭難の危険のあると思われている山に登るときの、あなたの気持ちと、
ここに違いはあるだろうか。

あの頃は、いとも簡単に、しなやかに、壁を乗り越えていた。
リスクよりも探求心が勝っていた。
怪我したら叱られるかもしれない(非難されるかもしれない)ということも頭からすっとんでいた。

大人になったら、山に登る時、リスクを考えることは必要だとは思う。
だが、そればかりが大きくなったり、何かあったら、子供の頃叱った親に代わって他人から非難されることを恐れたりすると、登山の大きな魅力がかき消されてしまう。

もともと山に登ろうとした時、ただ、行ってみたいという好奇心(冒険心)が出発点にあるはずだ。
(それがないと、目的がないから、本当に危ないだけだ。)
怖い、
つまりリスクがあるにしても、それを承知の上で山に行くのは、
そこにリスクを冒してでも得たいと思う価値があるからに他ならない。

だから、登山を安全か危険かだけで論じているのを見ると、
大事なことが欠けていると感じるのは、そうした登山の本質そっちのけだからじゃないかと思う。

安全な登山っておもしろいだろうか?
山に行くときに安全性だけを取り出すと、どうもおかしなことになる。
そこに、心底見たいものがあったり、得たい感情があったり、といった純粋な欲求(つまり目的)があるはず。

そうじゃないと危険の潜んだ山になんか、誰も行くわけない。