こどもを山に連れて行きたいと思う。

でも山ってリスクもあって、何かあったとき判断力が問われると思う。

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山で何を頼って判断を下すのか?

「判断力」は山の「力量」ではない

そこで「山でのジャッジは感覚的なもの」ということをいま少し考えてみたくなった。
いままでの自分の登山をちょっと思い出してみた。

穂高のアルパイン・ルートを登って、その日のうちにベースのキャンプ地に戻れなかったことが二度ほどある。

一度目は夏季の屏風岩だった。

夏季、「屏風岩東壁ルンゼ」という長いルートを登っていた。
屏風の頭まで抜け、パノラマ新道を下って徳沢のベースへ帰幕する予定であったが、パートナーが登攀中にクライミング・シューズを落としたり、ルート上部で雷雨に遭ったりで、終了点に登りつくまでだいぶ時間がかかってしまった。

終了点から屏風の頭までもかなりの藪で、手を松ヤニだらけにしながらひたすら漕いだことを覚えている。

屏風の頭からパノラマ新道の分岐は一息の下りだけだと思い込んでいたが、
これがとんでもない思い違いで、
アップダウンが繰り返され、分岐の道標は一向に現れない。
挙句にビバークサイトの先で踏み跡は笹藪に消え、
びっしょりになって無理やり稜線へ上がると、
全く馴染みの無い景色がガスの中に浮かんだ。

どこかへワープしてしまったか、いったいここは何時代だ。
記憶とはどうにも頼りないもので、
時を経てやがて自分に都合のいいように歪曲され、
いざという時には役に立たないことを知る。

自分の記憶に裏切られるのだ。

すでに日は落ちて辺りは暗くなり始めていた。
そのせいで一般道であるパノラマ新道の標を見落として、径を失ってしまったのだ。

稜線沿いに戻ると、下方の緑の間にトレースらしきラインがガスに紛れて見えた。
そこへ降りると、それは確かに屏風の頭とを結ぶ径である。

コンパスで方角を確認する。

3年前の記憶にあった残像が微かにこの場所と重なる。

暗い笹の海を戻って踏み跡を再発見できたものの、このままヘッドランプの灯りだけで径を見失うことなく徳沢まで降りられる自信はなく、
その日に自分たちが徳沢へ帰り着くイメージがつかない。

ふと、北尾根を挟んで右側に涸沢の山荘があることに気が付いた。
パノラマ新道を涸沢方面に行った方が安全圏が近い。

涸沢ヒュッテに泊まろうと思った。

急な雪渓のトラバースなどもあったが、何事もなく涸沢ヒュッテに到着できた。

山荘泊というのは選択肢にはなかった。
夜のパノラマ新道を下るのが怖くなって、山荘の明かりに吸い寄せられたに過ぎない。

改めて考えるに、それが自分の気持ちに素直に従ったことで思い至った、あの場でのベストの判断だったかもしれない。

 

穂高のアルパイン・ルートでその日のうちに戻れなかった二つ目の話

春の奥穂南稜でのこと

例年なら天気が良ければ夏以上に干される春の雪登高だが、この年はハイドレーションが凍って使えなくなるほど気温が低かっただけでなく、積雪も異常に多かった。

岳沢のベースから奥穂山頂までトリコニーの岩場以外は全て雪壁か雪稜で、それ自体は充実感があって楽しめた。

問題は下りだった。

日帰り装備しか持っていないから、その日のうちにベースのテントに戻らなければならない。
通常は吊尾根から前穂を経てルンゼを岳沢に下るらしいが、踏み跡はなく見るからに吊尾根は困難だ。

もうひとつの案としてジャンダルムを通って天狗沢を下降しようとしたが、ジャンダルムへの雪稜すら際どく、雪を落としながらのナイフリッジの下降は容易じゃない。

パートナー氏は
「自分にはそこは行けない」
という。

残された下降ルートは奥穂を越えてノーマルルートから涸沢へ下り、横尾、明神、さらには岳沢へ登り返すというもの。
困難はないが気が遠くなるほど遠い。
だが、悩まされるような怖さはない。
自分たちにはそのルートしか選択肢が残されていないようだ。

いつもなら賑わっているGWの奥穂山頂はなぜか涸沢からルンゼルートを登ってきたという3人組しかおらず、他にトレースもない。
後で知ったが穂高岳山荘側からのノーマルルートはレンジャーによって立ち入り禁止措置がとられていたのだ。

それほどの積雪だった。

走るように涸沢へ下るが、日のあるうちにはどうにも岳沢に着きそうもない。
長時間行動に体力的にも岳沢への登り返しができるかどうか疑問だ。

活力のモチベーションとするには岳沢帰着はあまりにも遠かった。
とはいえ途中に幾つも小屋があり、あえてビバークして飢えるという若さも持ち合わせていない。

自分たちの気力も含めた体力的な妥協点として明神池にある嘉門次小屋が思い浮かぶ。
そこなら行き着けるイメージができるし、そこまで歩こうというモチベーションもわく。

結局嘉門次小屋に到着したのは日の長い季節にも関わらず日暮れぎりぎりの刻だったと思う。

 

一番大きなリスクを最小限にすることを優先する

その時のもっとも大きなリスクを最小限に抑えることが
「正しいジャッジ」
となる。
どこに「怖い」と感じるか、それは常に自分に問い続ける必要がある。

つまり、自分の素直な感情に正直になることだ

山で出会う鹿も、クマも、人間もそれは同じだろう。

山に登る人間の判断とは動物がするようなそんな単純なものではない、と思うかもしれない。

しかし、突き詰めて考えるほどに、
山でのジャッジはシンプルで感覚的なものであるという思いに達するのだ。

こどもを山に連れて行くなら、こどもが今何を感じているか、何を怖いと思っているかを感じ取ってやることが、正しいジャッジになるんじゃないだろうか。